【日本の石けん運動の歴史】鳥羽市での合成洗剤追放運動(行政の対応-1)

市議会での請願採択に従って、1977年度から合成洗剤追放運動に使える予算が、30万円計上されることになりました。数年間はこのまま予算がついていたようですが、私が定年で辞めた1989年頃には、もはや形としては残っていませんでした。退職後たまに市から講演の依頼はあり、すごく安い講演料が出ていましたが、これは別の科目で支出されていたようです。

最初の頃は、柳澤文正先生に講演を依頼したり、合成洗剤追放のパンフレットを作って市内全世帯に配付したり、パネルを作って市内各所に掲示したり、有効に予算を消化していましたが、だんだんする気が無くなってきて、予算の使い道に困ってきたみたいでした。それというのも、始めは一応公害担当の企画課の女性職員が、合成洗剤追放の係をしていて、2年位で担当者が変わってもみんな伸び伸びと仕事をこなしていて、私にもよく相談してくれていました。

それが機構改革のために、合成洗剤担当は商工観光課に移ってしまい、合成洗剤係の女性職員はいなくなりました。予算だけはそのまま残っていたので、係長クラスの男性職員が対応するようになりました。こうなると男の悪い点で、できもしないのに縄張り根性と自意識ばかり強く、私に相談など一切しないで、勝手に石けんメーカー(合成洗剤も作っている会社)の営業部長などに講演を依頼して、その会社の製品をお土産に配ったり、ろくなことはしませんでした。〈合成洗剤の問題では特に女性の方が感性が優れています。この点ではおおかたの女性と意見が一致します。それに合成洗剤の担当者になった女性職員は、みんな2年くらいで配置替えになるとき「私の手がこんなにきれいになったのは課長さん(私のこと)のお陰です」と言ってくれます。〉

市の広報も最初の頃は、合成洗剤に関する記事を出していましたが、だんだん減ってきて、最近はもう全く見掛けなくなりました。ただ現在も公害問題を担当している商工観光課の女性職員が、年に1回位自発的に私の講演を企画してくれます。しかし最近は婦人会などに話を持ちかけても、人が集まらないからとか何とか言って、なかなか乗ってくれないと嘆いています。

※このコーナーでは、石川貞二さんの文章をそのまま掲載しています。当「石鹸百科」とは異なる見解が含まれていることがあります。

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